「ジャドール・ラフドモン…」
フロイオンは窓の外から見える雲を見ながらつぶやいた。
ライは、暗殺を依頼した人物の名前をジャドール・ラフドモンと言った。
フロイオンはその名前をよく知っていた。彼女は現在、イグニスの第1宰相だった。
しかし、それより重要なことは彼女が、フロイオンの腹違いの兄であり
イグニスの国王でもあるカノス・リオナンの情婦である事だった。
ジャドール・ラフドモンがフロイオンの殺人を依頼したと言う事は、
カノスがフロイオンを殺そうとしていると言う事と同じ意味だった。
兄が自分を注視しているのはよく知っていた。
しかし、もはや次の王位継承者にカノスの長女である
エメリタ姫が決まった以上、兄に自分を殺す理由はなかった。
それにも関わらず、兄が自分を殺そうとしている事実を知った。
こんなにも身を潜めて気を付けていたのに、
カノスがいまだに自分の死を求めているという事実は衝撃だった。
‘そんなにも私達を憎んでいたのか?’
ふと、カノスがどんな手を使ってでも自分を殺そうとしているのは、
先王の恋人であった母親と自分に対する憎しみのせいだと思った。
フロイオンの母、アンジェリーナ・アルコンに対する先王の愛は
ダークエルフの貴族であれば誰もが知っていた。
彼女は貧しい貴族のお嬢さんだった。
アンジェリーナ・アルコンは美貌の妖婦とはほど遠い、
恥ずかしがりやの少女のような女性だった。
そんな彼女が先王だったロシュ・リオナンの寵愛を一身に受けたのは、
彼女が持っていた暖かい雰囲気があるからだった。
ロシュ・リオナンとアンジェリーナ・アルコンの初めての出会いがどんなものだったのか、
ちゃんと知っている者はいなかった。
国王が狩場でアンジェリーナに出会ったと言う噂、
ある貴族の屋敷で開かられたパーティーでお互いに一目惚れしてしまったと言う噂もあった。
しかしフロイオンが母親から直接聞いた話では、そのどちらでもなかった。
『その時、私は父上のお使いで初めてモントに訪問していたの。
私が住んでいた所とは全く違う、巨大な都市に私の好奇心は刺激されたわよ。
父上は馬車に乗るようと言っていたけれど、
私は全てを自分の目で直接見て楽しみたかったから一日中歩き回ったよ。
ある程度満足した頃には夕焼けが空を染めていたわ。
その時初めて私は靴を履いていた足が豆だらけになった事に気付いたの。
歩けないほど辛くて馬車に乗って帰ろうと思ったら、
辺りを行き交う馬車が見当たらなくてね。
結局、私はどこかに座って休みながら馬車を捜そうと思って近くに見える噴水台に行ったの。
冷たい水が湧いてくるのを見つめながら椅子に座って休んでいたら、
背中からしくしくと泣き声が聞こえてね。びっくりしてそっと振り向いてみたら、
一人の男性が私の後ろにある椅子に座って泣いていたのよ。
知らない男に先に声をかけるのは女としてはありえない事だったから、
私は前を見て座りなおしたのよ。しかし男はずっと泣き続けていたわ。
今までに聞いた事のない、悲しい泣き声…。
悩んだ私は持っていたハンカチをそっと彼に渡してあげたの。
びっくりしたみたいだったけれど、小さな声で私にありがとうと言ってくれたわ』
田舎貴族の娘であったアンジェリーナ・アルコンと
先王ロシュ・リオナンの出会いはそのような形だった。
当時、コンテブロー家の娘であるシャロット・コンテブローとの政略結婚で混乱していた先王は、
自分の事を暖かく慰めてくれるアンジェリーナに心を奪われた。
その後、先王はアンジェリーナ・アルコンに会うために
アルコン家がある田舎によく狩りを出て、二人の愛を育てていった。
しばらく経ってから、シャロット・コンテブローとロシュ・リオナンの間で
現イグニス国王であるカノス・リオナンが生まれた。
アンジェリーナのお父さんは国王に子供ができた以上、
アンジェリーナは捨てられたのに等しいと嘆きながら、
アンジェリーナを他の家と男と結婚をさせようとした。
しかし、息子が生まれてからもアンジェリーナに対する
ロシュ・リオナンの気持ちは変わりがなかった。
むしろ先王は自分の後継者が生まれて王妃としての
シャロット・コンテブローの立場は固まったから、
王妃に対する自分の義務は終わったと、アンジェリーナを王城に連れて行った。
そして1年後、アンジェリーナは息子を産んだ。
しかし、あくまでもアンジェリーナは先王の情婦であったため、
アンジェリーナが生んだ息子はリオナンという苗字をもらう事はできなかった。
それでフロイオンは母親の苗字をとって、フロイオン・アルコンという名前をもらった。
このときからシャロット・コンテブローはアンジェリーナに嫌がらせを始めた。
イグニスの中で最も大きい権力を持った家であるコンテブロー家門のシャロットは、
夫である国王の前でも露骨にアンジェリーナをいじめた。
一国の国王であったが、実際権力は妻のシャロット・コンテブローと
父であるコンザロ・リオナンが持っていたため、
ロシュ・リオナンが愛する人と息子にできる事は離宮で安全に過ごせるようにしてあげるだけだった。
王の情婦という事だけで、アンジェリーナは息子と一緒に遠く離れた離宮で
外に出ることもできず過ごさなくてはいけなかった。
先王はほとんどの時間を離宮でアンジェリーナとフロイオンと共に過ごした。
フロイオンは父上の代わりに陛下と呼んでいたロシュ・リオナンとのたくさんの思い出を持っていた。
フロイオンに楽器の演奏し方や、絵を書く方など直接教えてくれた。
フロイオンにとって、ロシュ・リオナンは限りなく優しいお父さんであった。
‘いつも春になると、陛下は母上に自ら摘んだ薔薇を抱かせてくれて、
眠れない真夏の夜には私の隣で色々な美しい話をしてくださった。
冬になると母上と私の肖像画を直接書いてくださった’
離宮で先王と共に過ごした時間は10年もなかったけれど、
フロイオンの記憶の中に先王との思い出がたくさんある分、
腹違いの兄であるカノス・リオナンは先王の愛を受けられなかったわけになる。
実はフロイオンは先王が持病で倒れた後、
カノス・リオナンの命で離宮から追い出されるまで、
腹違いの兄がいるとの事を知らなかった。
先王が倒れて、もう離宮に来られなくなったとき、フロイオンはやっと10歳だった。
先王を最後に見てから1ヶ月ぐらいが経った頃、
気難しい顔の男が離宮を訪ねて、
アンジェリーナとフロイオンに離宮を離れろという命令が降りたと言った
。アンジェリーナは先王がそんな命令をするわけがないと抗議すると、
彼は先王が意識不明になって、王子であるカノス・リオナンが
王の業務を代行していると教えてくれた。
その男が去ると、アンジェリーナは涙を流しながら、
フロイオンに自分は王の情婦であって、
先王には後を継ぐ王子がいるという事実を教えてあげた。
10歳のフロイオンは母上の話が何を意味するか、
まだ分からなかった。ただ、お父さんであった先王にもう二度と会えなくて、
自分には腹違いの兄がいるという事だけは理解できた。
離宮を出て、モントの外にある屋敷に住居を移した日、
フロイオンは王城の廊下で初めて自分の腹違いの兄という少年に会う事ができた。
先王と同じ銀髪という点以外に、自分や先王に似た所は少しも見つからなかった。
彼はフロイオンと1歳しか違わないのに、
氷のように冷たい印象で限りなく傲慢な目つきをしていた。
口元には残酷が微笑みを浮かべていて見ている人に恐ろしさを与えた。
「お前があの有名な私生児か?」
それがフロイオンに気が付いたカノスの最初の言葉だった。
その短い言葉は多くの意味を含んでいた。
自分は先王の正当な後継者として次の国王になる王子で、
フロイオンはあくまでも先王の情婦が生んだ息子である事。
自分とフロイオンが同じ父を持っているとしても、
根本から違い過ぎるというのをフロイオンに念を押していた。
モントの外にある屋敷に母親と一緒に追い出されてから、
フロイオンはこれ以上甘えてはいられないと気づいた。
自分と母親を守ってくれていた先王はもういなかったし、
自分は王族と貴族の曖昧な境界線に立っていると同時に、
第2位の王位継承権を持っている事も分かった。
離宮では知らなかった多くの事実に困惑したカノス・リオナンの歓心を買うために
自分と母親を殺そうとした暗殺者たちは数え切れないほど多かった。
屋敷から出て道端を歩くのは自分を殺してくれと言っているようなものだった。
後に、暗殺者たちは家の中にまで入り込み自分と母親を殺そうとした。
幸い、当時家に来ていたおじさんのおかげで命は救われたけれど、
それからフロイオンは自分のスタッフを枕元に隠して寝る習慣を付けるようになった。
結局、アンジェリーナとフロイオンはアルコン家の屋敷に落ち着くことにした。
初めて離宮を出たとき、アンジェリーナの兄は実家に帰ってくるように説得したが、
自分のせいで家族が辛い目に会うことを望まなかったアンジェリーナの意地で、
モントの外にある屋敷で過ごしていたのだ。
しかし、絶えない暗殺者たちの脅威からアンジェリーナはフロイオンを守るために
実家であるアルコン家に戻る事を決心した。
誰にも気づかれないうちに、アンジェリーナとフロイオンはアルコン家へと逃げた。
しばらくの間、フロイオンとアンジェリーナには安全な日が続くように思えた。
しかし、ある日、いきなり国王の命令と言い、
王室親衛隊がアンジェリーナを連れていって、その後、二度と会う事はなかった。
フロイオンはいまだに目の前で軍人達に連れられていく母親の姿を生々しく覚えている。
「フロイオン!あなたは必ず生き残るのよ!」
アンジェリーナの最後の一言はフロイオンの心の中に深く刻まれた。
フロイオンは暗殺者たちから自分の身を守るために魔法の訓練をし続けた。
そして、国王になったカノス・リオナンを刺激しないために身を潜め続けた。
カノス・リオナンに不満を持っていた何人かの貴族たちがやってきて、
フロイオンを王にしたいと述べた事もあったが、フロイオンは丁寧に断ってきた。
危険な欲は捨てるのは最善だと思ったからだった。
代わりに自分の存在価値を示すために努力し続けた。
ロビナの勧誘で外交任務を引き受ける前に、フロイオンは司祭になるつもりだった。
国王の権力とは距離がある司祭になると、兄はそれ以上、自分を殺す理由もなく、
自分は神殿の保護を受け、兄の脅威からも安全になれるという判断からだった。
しかし、今になって気付いたのは、自分がどんなにしても
カノス・リオナンは自分を殺そうとするという事実だった。
「避けられないのであれば、ぶつかってみないと」
フロイオンは自分の覚悟を決めようと自らに大きな声で言った。
もはや引き下がる事は出来ない。
生き残るためには戦って勝たなければならない。
カノス・リオナンを倒してイグニスの国王になる事。
それだけが自分の長い苦痛から逃れられる唯一の道だった。