晴天を思わせる壁に囲まれた部屋は豪華で、清雅な香りに満ちていた。
部屋の中の家具は純白の珊瑚で作られていて、海の中にいるような錯覚さえ起こす。
雲のようにふわふわしているベッドに横たわって、キッシュは天井を見上げた。
最後の試練で目標地点に着いてハエムと苦笑を漏らしていた時、
キッシュが次の国王の後継者に決められたと、バハドゥルが叫ぶ声が聞こえた。
ハエムとキッシュは唖然とした。それはその時まで笑んでいたカルバラ大長老とドビアンも同様だった。
その場にいた誰もが自分の耳を疑った。
何か間違いがあるのではないかとカルバラ大長老は言ったが、
バハドゥルは、国王陛下は間違いなくキッシュを次の後継者に決められたと答え、
キッシュに王宮へ向かうようにと伝えた。
うろたえる人たちを後にしたキッシュはバハドゥルと一緒に王宮に入り、国王陛下に謁見した。
国王は微笑みながら、最後の試練に隠していた意味を説明した。
頭では理解できたが、キッシュは依然として自分が次の国王になるという事実を信じることができなかった。
目の前で倒れた息も絶え絶えの少女を抱えて医術師を尋ねながらも、
キッシュは結局自分は負けたのだと思っていた。
だが驚くことにそれは国王の隠密な試しで、その行動の為に自分が最終的な勝利者になったのだ。
「やはり国王は普通の人とは着目する所が違うのかも…」
出発点で走り始めた時、ドビアンとキッシュは互角だった。
誰かが足を踏み外して転ばない限り、二人は同時に決勝点に着くはずだった。
だがしばらく走っていたら、視界の向こうに何かが見え始めた。
十分に近づいてやっとそれが道端に倒れている子供だとわかった。
キッシュは足を止めて子供の容態を確認した。気を失っている子供の全身に赤い斑点が見えた。
火がついたような高熱を発して、息が上がっている姿はどう見ても深刻な容態だった。
だがドビアンは子供が見えなかったのか、すれ違いそのまま走って行った。
「ドビアン!子供が倒れている!」
ドビアンはちらっと振り向いて、氷のように冷たい目つきで短く言った。
「それがどうした?」
それだけ言って、ドビアンはキッシュと子供を残したまま走って行った。
キッシュは瞬間どうするべきか迷ったが、子供の命の方が先だと思った。
まずは子供の熱を下げるために呪文を唱えて、冷気が宿った手を子供の額に当てた。
熱が下がりはじめると子供の息が少しずつ楽になる。キッシュは子供を抱き上げた。
その瞬間までは戸惑いがあった。
子供を医術師に連れて行くのは目的地に着いた後でも良いのではないかという思いが頭を過ぎったからだ。
だがすぐに自分に言い聞かせた。国王になろうとしているのは全てのデカン族を救うため。
それなのに目の前の小さな命を救うことに躊躇うのは自分の決めた大儀に背く行動だ。
キッシュは子供を抱きかかえて一生懸命走りはじめた。
『王になれなくても、自分の大儀を貫く道は幾らでもある。今はこの小さな命を救うのが先だ』
幸い、医術師マスルスは家にいた。
いきなり駆け込んできたキッシュに、マスルスは目を丸くした。
「君は…最終試練に参加したんじゃなかったのか?」
キッシュは頷いて、肩で息をしながら言った。
「この子を見てください」
マスルスは何が何だかわからないまま、キッシュが抱きかかえている子供を診察しはじめた。
子供の容態を確認したマスルスがキッシュに言った。
「この子は責任を持って診療するから、君は早く試練に戻ってくれ」
キッシュは首を横に振り、子供の容態が安定してから戻ると言った。
マスルスは何度も大丈夫だから行けと言ったが、キッシュは聞かなかった。
結局子供の診療が終わるまで待って、自分の目で子供の無事を確認してから
やっとキッシュは目的地に向かった。目的地ではハエムが憂い顔で自分を待っていた。
彼は何も言わなかった。ただよくやったとでも言うように、彼の肩を軽く叩いてくれた。
「キッシュ様?」
いきなり聞こえた呼びつけに、キッシュはベッドから起きた。
銀糸で華麗に縫い取ったコバルト色のシルクを身に纏った侍女が扉の前で自分を見つめていた。
彼女はポットと簡単な茶菓子を乗せた丸いお盆を両手で持っていた。
「お茶を持ってきました」
キッシュは気押された表情で、ベッドの傍らにあるテーブルの上に置いてくれと言った。
侍女は控えめな態度で部屋に入り、テーブルの上にお盆を置いてティーカップにお茶を注いだ。
キッシュはゆっくりと歩み寄り、テーブルの傍にある丸い椅子に座った。
侍女は甘い香りがするティーカップをキッシュの前に置いて立っていた。
キッシュは少し躊躇ってから、彼を見つめる侍女を見て仕方なくティーカップを口に運んだ。
美しい侍女は夢見るような眼でキッシュを見つめていた。侍女の視線が気になったキッシュは慌ててお茶を呷った。
ティーカップが空になっても侍女は出で行く様子がなく、そのままキッシュを見つめていた。
瞬間、いきなり睡魔に襲われたキッシュは椅子から腰を上げてベッドの方へと歩きながら言った。
「ありがとうございます。もう一人にしてくださいますか?」
侍女はその言葉には答えなく、キッシュに近づいた。
キッシュは眠気の中でも驚いて侍女を見つめる。
彼女はそんなキッシュの反応は気にもせず、キッシュの身体を支えてベッドの方へと動いた。
腰を抱かれて引っ張られるようにベッドに連れて行かれたキッシュは、ベッドの上に倒れるように横たわるしかなかった。
侍女はそんなキッシュの身体の上に乗り、纏っていたコバルト色のシルクをゆっくりと脱ぎはじめた。
キッシュは制止しようとしたが、意識が徐々に混迷になって行く。
その時になってやっと、先飲んだお茶に何か怪しい薬が入っていた事に気づいた。
コバルト色のシルクが床に落ちて行くにつれ、侍女の肩と隠されていた胸が露になる。
キッシュは気を取り戻そうとしたが、目の前は霧がかかったようにぼやける一方だった。
豊満な胸の曲線を隠すものが薄い布一枚だけになった頃、
そこに縫いつけた形で固定してある小さな短刀が目に入った。
侍女が短刀を高く振り上げる。
「何を…」
侍女が振り上げた短刀が自分の首を目掛けて下ろされる光景を見たのが最後だった。
キッシュはそのまま意識を手放した。