母は何も言わずにナトゥーから渡されたラークの遺品の腕輪をいじるだけだった。 彼女の目からは涙一滴も流れていないが、 眉間に寄せたシワが悲しみや苦しさを物語っていた。
父親は15年前にこの世を去った。 ジャイアントの大地を守るために勇敢に戦って命を落とした誇り高き戦士だった。 母親は4人の子供を持ち、その中の娘1人を病気で失った。
そしてまた1人の息子を、 自分の夫と同じく名誉ある戦死という形で失ってしまったのだ。
首が斬られて倒れていた弟の遺体を思い出し、ナトゥーは唇を噛み締めた。 冷たい腕にはめられていた腕輪。 弟の遺体を抱き上げた時、腕輪の金属がぶつかり合って出した冷たい音は 今も生々しく覚えている。
ナトゥーはこれまで部下の遺品を遺族に渡した経験が何回もある。 それは何度経験しても決して慣れる事がない。
そして今、自分の弟の遺品を家族に渡し、弟の戦死を自分の母親や妹に伝えるということは 想像もできないほどの苦しみを伴っていた。
息もできないほどの重い空気。 妹は腕輪を握っている母親の手に自らの手を重ね、泣き出した。 娘の手を撫でながら慰めていた母親の目にも涙が溢れてきた。
母親の顎から床に涙が落ちる前に、ナトゥーは家を出た。 弟の死を伝えるために実家に帰ったことを思い出すと、息が詰まり胸が苦しくなる。 ナトゥーは喉の奥からこみ上げてくるような重い苦しさを吐き出すように、 深いため息を付いた。
自分の家庭だけに起きた特別な悲劇ではない。 戦闘が開かれる度に、自分の妹や母親同様、数多くの家族は涙を流しただろう。
大地の神ゲイルが見下ろしていたこの大地はいつから汚されていたのか。 ジャイアントの神ゲイルはいつから消えてしまい、醜いモンスターが現れだしたのか。 ゲイルはいつからジャイアントに背を向けることになったのか。
堅い大地より堅固な存在、全ジャイアントを包む偉大な山、それがゲイルだ。 小さい頃から繰り返し聞いてきた話。その話を堅く信じていた時もあった。
しかし今はゲイルの神像の前に立っても平穏な気分にはなれない。 果たしてこの都市を守りきれるだろうか。
エトンはジャイアントが最初にロハン大陸の地を踏んだ場所に建てられた都市であり、 首都であり、聖地でもある。 そしてジャイアントの手で守るべき場所。
しかし、そういった堅い決心や、初めて戦場に立った頃の意気込みは 今のナトゥーには残っていない。
「こんな時間に何を?」
月の光や神像の影が織り成す空間で、闇に体を半分隠し話しかける者がいた。 その人影は一歩近づいてきて、頭から被っていたマントを外した。 明るい月の光でその顔が明らかに見えた。
「フロイオン・アルコン卿…」
ナトゥーは軽く握った拳を胸に当て敬礼し、会釈をしながら言った。
「アルコン卿こそこんな遅い時間まで何を?護衛兵を従えもせずに。」
「ドラットのエトン市は城内での散歩も危険なんですか」
冗談交じりのダークエルフの話にナトゥーの眉がぴくりと動いた。 フロンはそれは違うと、掌を見せながら手を振った。
「冗談ですよ、やはりジャイアントは自国に対しての自負心が 相当強いみたいですね。」
「どの種族だって自分の種族や国に対しての自負心は持っていますよ、 フロイオン卿」
「さあ…少なくともジャイアントはそうだということですね。」
フロンは硬く強張った顔つきで答え、ナトゥーの返答を待たずに話題を変えた。
「ところで、突然敬語ですか、もっと親近感のある話し方でしたのに」 「…その節は失礼致しました、お許しを」
ナトゥーはもう一回フロンに会釈をした。 ダークエルフ貴族の青年は妙な微笑を浮かべた。ナトゥーはその微笑を不快に感じた。
何を企んでいるのか、お前達ダークエルフは。 「少し歩きませんか?ここの冷たく澄んだ空気を吸い込めるのも もうそんなに長くはないですし。」
フロンは言うと同時に歩き出した。 散歩とは言っても城の前の広場を行き来するだけだ。 異種族の使節団に許された空間はそんなに広くない。 ナトゥーはスタスタと歩きフロンの後を追い、並んで歩き始めた。
「使節団の仕事は終わったのでしょうか。いつお帰りになるんですか」
「いいえ、今度の訪問の目的を達成してはいません。 ですが、すぐ達成できると思います」
ダークエルフの青年の微笑には自信が滲んでいた。 ナトゥーは顔をひそめ足を止めた。
「限りなく出没するモンスターを相手にすることで手がいっぱいです。 あなた達は我々の国王をそそのかしてどうするつもりですか? 何を企んでるのです?」
言ってしまった後に、すぐ後悔した。 国家間交流の目的で訪問した異種族の使節団に言うべき言葉ではない。 ましてや大声を出して言うことでもない。
しかしナトゥーを振り向いたフロンの顔はまだ微笑を浮かべていた。
「遅かろうが早かろうが、この大陸は戦争に巻きこまれるでしょう。 もうこの大陸は混沌の気運に包まれています。 いずれ私達はモンスターにではなく、お互いに向かって剣を振るうことに なるかもしれません。 ご存知ですよね、軍の部隊を率いるお方ですから。」
フロンの顔から徐々に笑みが消えた。 真剣な顔になったダークエルフ青年の目が光った。
「先に動き出す者が勝つのです。そして私達は先に動くつもりです。 誰よりも先に…ただ、勝利のために」
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