トリアンがクレア工房に着いたのは、 楡の森が夕焼け色に染まり始める頃だった。
ヴェーナからアインホルンに繋がる近道にあるクレア工房は いつもヴェーナから北へ向かう旅行者で賑わった。 途中で安全に休める適当な場所が無いということもあるが、 クレア工房ではロハン大陸で得られる最も立派な武器や防具が 比較的安い価格で販売されているからである。 他の地域と比べ、クレア工房で品物が低価格で販売されるのは 貿易商人の手を経由しないからだった。
エルフたちは各種魔法武器や防具を作ることに優れていて、 それを製作するための工房がかなり多くの場所に存在している。 その中でもっとも有名な場所がクレア工房で、 この工房で作られる品物はアステリオというエルフが開発した`クレア工法`で作られるため 他の工房のものより丈夫で優秀な魔法効果を持つ。
`クレア工法`とは世の中の全ての物質は自然界に存在する 様々な元素で構成されているという元素理論を応用したもので、 職人が魔力を利用して色んな元素を結合させて、 思うままの材質と形の物を作る方法である。 魔力を使うということから`クレア工法`で作られた魔法武器や防具は 一般的な方法で作られたものと違って、使用者の魔力を強化する効果があった。 そういうことから`クレア工法`を開発したアステリオがヴェーナを離れ 北の楡の森にクレア工房を建てた時には多くのエルフが惜しみ、 ヴェーナから離れているにも関わらず、魔法の武具を購入するため わざわざクレア工房を訪ねた。 だが、今日トリアンがクレア工房を訪ねたのは、他の人とは違って ごく個人的な理由のためだった。 クレア工房には35年前、自分の命を救ってくれた司祭ジェニスが住んでいた。 当時モンスターの襲撃を受けたレゲンからヴェーナに避難している途中 トリアンを抱いて逃げていた母は大きな傷を負って死んでしまった。 その時マレアの神殿で勤めていたジェニスが母に抱かれていたトリアンを発見して、 ヴェーナで待っていた父のところまで連れて行った。 もしジェニスに見つけられなかったら、トリアンはモンスターや野生の動物に殺されるか 餓死したのかも知れなかった。 だからトリアンはジェニスを命の恩人と思い、ずっと今まで連絡し続けてきたのである。 トリアンが魔法アカデミーに入学してからは忙しくなってなかなか会えなかったため、 今回アインホルンへ向かう途中で彼女に会うことにした。
クレア工房に到着したトリアンは道を通る人たちにジェニスのことを聞いてみた。 ジェニスはクレア工房で唯一の司祭で彼女を知らない人はいなかったので、 トリアンは思ったより簡単にジェニスの居場所が分かった。
ワイン色の空にはいつの間にか星が一つ二つ現れ始めた。 闇が深まって路地も静かになり、家の中で灯した明かりが窓から映る。 ジェニスの家もまた他の家と同じく窓から映る室内の光が明るい。 違うところを言えば、その光の中に祈りを捧げる暖かい声が混ぜていることだった。 ジェニスが詠じているのは`マレアの微笑`という祈りだった。 エルフの創造神であるマレアにいつも彼女の微笑と共にいられますようにという内容の 祈り文はトリアンが魔法アカデミーにいた時、 朝の食事時間に読んでいたものだったのでよく知っていた。
`だけど… もう神は私たちを捨てたのに… もう私たちの祈りを聞いてくれる神はいないのに…`
誰にも神がロハン大陸の種族を捨てたということを言わないという誓いをしていたので、 トリアンはジェニスにもエルフの創造神であるマレアが エルフたちを捨てたということは話せなかった。 なんだかジェニスを騙すような気がして胸が痛んだが、仕方のない事だった。 何の役にもたたない祈りだとしても真心を尽くして祈りを捧げているジェニスを 邪魔するわけにはいかなかったので、トリアンは祈りが終わるまで外で待つことにした。 その時、窓際に小さい顔が現れトリアンを見つめた。 トリアンが近づこうとしても、その顔は消えてしまった後だった。
`結婚ができない司祭のジェニスに子供がいるはずがないのに… 私、疲れているのかな?`
顔を上げて夜空の星でも見ながら目の疲れを取ろうとしていると 玄関の扉が開かれてジェニスが現れた。
「トリアン!」
ジェニスは優しい声でトリアンを呼びながら彼女を抱きしめた。
「トリアン、もう何年ぶりなの? 魔法アカデミーに入学してからは一度も会えなかったわね。 まさか今日貴方に会えるとは…」
「ええ、20年ぶりですね。 ごめんなさい、元気でしたか?」
「もちろんよ。 毎日同じ日を過ごしていたけれど、今日は特別な日になりそうね。 まあ、こんな所で立っているのも何だから、中に入りましょう。 ちょうど食事のところだったの。貴方が来ると知っていたら、 何か美味しいものでも作っておいたのに」
「とんでもないです。 私が食事をお邪魔してしまったようでごめんなさい」
ジェニスは笑いながらトリアンの手を取って、家の中に入った。 テーブルの上には新鮮な果物や蜂蜜をいれたビスケット、牛乳などが置かれていた。 ジェニスは自分が座っていた席にトリアンを座らせ、 新しい食器を取り出して彼女の隣に座った。
「はるばる来たお客さんがいるのに、 つまらないものばかりでごめんなさいね。」
「いいえ、充分すぎますよ。 ところで… あれは誰の席ですか?」
トリアンが指したところには小さい皿と牛乳のカップが置かれていた。 まるで子供のために用意したもののようだった。
「ああ、あれはオルネラの席よ」
「オ…ルネラ?」
「まあ、貴方はまだ知らないでしょうね。 今私と一緒に住んでいる子よ。 さっき私に貴方が外で待っているって伝えてくれたけど…
どこにいるのかしら…?」
トリアンは窓から自分を見つめていた子供の顔が幻ではないことが分かった。 ジェニスは家の中の隅々まで調べながらオルネラの名前を呼んだが、 少女はその姿を現さなかった。
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