煉瓦の隙間から吹いてくる風の音、夜が深まったのを知らせるフクロウの鳴き声、 お酒を呑みながらくだらない話で騒ぐ警備兵たちの声。 モントの王宮にある地下監獄はさまざまな音で溢れていた。 しかし、どの音も集中しているナトゥーを邪魔する事はできなかった。 指輪と引き換えに、警備兵から聞いた情報は衝撃的だった。 宝石細工師と自分の事を紹介したベロベロというハーフリングが長老だったというのは 軽く流せる話ではなかったのだ。
‘いったいダークエルフたちは何を考えているんだ。 一種族の長老を簡単に殺すなんて。 すでに戦争を覚悟しているとでも言うのか? しかし、ハーフリングと戦争を始めるというのはハーフリングの友邦である、 エルフやヒューマンも相手にするという意味になる。 ダークエルフが急襲をするとしても 三国を一人で相手するのは無理なはず… まだ俺らと秘密協定を結んでもいない状態で こんな事を起こすというのは いつでも勝てる自信があるって事か? しかし、戦争で勝利する自信があれば無理に俺らと秘密協定を 結ぶための努力をする理由なんてないはずだ…’
ナトゥーはふと、ベロベロが地下監獄の中に閉じこめられているときに 閉じ込められてから半年になる、と言っていた事を思い出した。
‘半年も自分らの長老が姿を消していたのに、 ハーフリングたちはなんで動かなかったのか。 まさかベロベロの言ったとおり、 旅行中にモンスターに襲撃されて死んだとでも思っているのか?’
その時、ナトゥーの耳に入るものがあった。
「…ところで、あのジャイアントも今日死んだ ハーフリングみたいに始末するつもりかな。 着ている服に豚の血を塗って同族に見せつけてさ。 今回のヤツは金目になりそうな物も結構持ってそうだよな。 ハーフリングの爺が持っていた宝石やアクセサリーは 全部取られちまったんだろう? しかし、あいつが持っている剣ぐらいは 俺らがもらっちゃってもいいんじゃないか?」
ナトゥーはちらっと監獄を守っている警備兵たちを見た。
「それは上の方たちが決める事だ。 俺たちは言うとおりにやればいいんだよ。 しかし、俺にはあのジャイアントがモンスターに簡単にやられるとは思えない。 だから血まみれの服とかを見せたって、向こうも信じっこないんじゃないか? ハーフリングの爺はモンスターに食われてもおかしくなかったから、 ハーフリングたちも騙されてくれたんだよ。 しかし、あの者の体を見ろ。 モンスターが群れで襲っても一気に片付けてしまいそうだろう?」
警備兵たちはナトゥーが聞いていることなんかお構いなしにしゃべり続けた。 ナトゥーはやっとダークエルフがどれほど狡猾にベロベロの生存を ハーフリングたちから隠してきたかが分かるようになった。 彼らはベロベロの衣服を脱がし、動物の血を塗った。 そして、それをハーフリングたちに見せて、死んでいたベロベロを 発見したかのように言ったのに間違いなかった。 ナトゥーは自分が思ったより、狡猾で悪辣なダークエルフの姿に驚いた。 普段、ハーフリングたちと仲が良かったわけではないが、 ダークエルフがやっている事は種族間の対立を超え、 邪悪、その物だった。
辺境で、モンスターたちとの戦いで死んでいった戦士達の死を 家族に知らせる事を数え切れなく経験したナトゥーとしては、 生きている人を監禁し、偽りの遺品を作って 家族に渡すというのはとても許せない行為だった。 もし、ダークエルフが自分の服で偽遺品を作り渡したりでもしたら、 母と姉は衝撃に耐え切れないだろう。 弟・ラークに死なれて未だに立ち直ってない母は、 自分の偽遺品なんかを渡されると、 その場で気を失ってしまうかもしれない事だった。
‘そして、クレム…あいつも俺が死んだと言われたら悲しむだろう… 泣いてくれるのか。 いや、あいつなら人の前で決して涙を見せない。 むしろ、俺が死んだわけがないと俺の死体を捜し回るかもしれない’
今更クレムとの思い出が頭の中に走馬灯のように現れた。 幼い頃、雪の降る浜辺で雪合戦をした事、 戦士になりたいと一緒に戦士訓練所に入った事、 訓練所で一晩中、剣を競ったが、夜明けになってやっとクレムに勝てた事、 戦士会の兵営で一緒に戦士に任命された事、 辺境でモンスターが攻め寄せてきた時、力を合わせ一緒にやっつけた事。
同じ村で育ったナトゥーの人生に、クレムのいない時は一瞬もなかった。 いつもクレムは自分のそばで自分と一緒に行動していた。 二人は友達であり、いいライバルであった。 クレムの武術の腕は決して自分より劣っていなかったにも関わらず、 クレムは彼に口癖のように一生自分の事を補佐したいと言った。 彼はナトゥーが部隊長になる日、お祝いの言葉と共に ナトゥーが隊長になれば、自分が部隊長になって力を貸すと、言った。 そのたびにナトゥーはクレムに一緒に隊長になろうと言ったが、 クレムは首を横に振りながら言った。
「俺には分かる。君は隊長になれる能力を持っているが、俺は違う。 一生懸命に頑張っても部隊長になるのが精一杯だ。 しかし、最善の努力を尽くして絶対に部隊長になる。 君が暴走した時、落ち着かせる事ができるのは俺ぐらいしかいないだろう?」
クレムの話にナトゥーは大声で笑った。 そして頑張って出来ない事なんかないと友達を激励した。 ナトゥーは死ぬ日まで、いつもクレムと共に戦場を走り回ると思っていた。 しかし、バタン卿が伝えた国王の命令でイグニスに来る事になり、 始めて二人が離れる事になったのだ。
‘バタン卿は俺がここに来ると、こうなることを知っていたのか?’
政治家たちの考えを読むのは難しかった。 しかも、二番目の王子の手下である事を隠して、 国王の右腕として活躍している若い宰相の本音を探るのは無理だと思った。 バタン卿はナトゥーを選択した理由は、 アカード王子を支えられる能力があるかどうかを試すためと言った。 ということは、バタンはイグニスを訪問する事が 誰にでも出来る容易な事ではないと知っていたのに間違いない。 国王の力を借りてバタン卿が自分を弄んだと思い、ナトゥーは腹が立った。 頭を思いっきりそらして壁にぶつけた。
‘ドン!’と音が鳴ってダークエルフの警備兵たちが一瞬驚いてナトゥーを睨んだが、 すぐまたお酒を呑みながら騒ぎ出した。 ナトゥーは大きく深呼吸をし、頭を左右に振った。 この場所にいつまで閉じこめられているか分からない状況で、 無駄に力を使うのは危険だった。 その時、頭の後ろから冷たい石ではない違う何かが感じられた。 振り向いて壁をよく見てみると、ほんの少し隙間があって、 その間から小さな巻物が見えた。 ナトゥーはベロベロが監獄を出る前に自分に壁の隙間に挟んで置いた手紙を カイノンにいるエレナに渡してほしいと頼んできた事を思い出した。
ナトゥーは振り向いて座り、警備兵たちが気づかないようにして、 右の手で顔の横にある穴から巻物を出した。 巻物は小指ぐらいの大きさだった。 慎重に巻物を結んでいる紐を解いて広げてみた。 しかし、初めて見る文字で文が1行簡略に書いてあるだけだった。 いくら覗き込んでも内容を理解する事はできなかった。 ナトゥーは巻物を巻き戻して、紐で結んだ後、肩の防具の隙間に隠しておいた。 その時、警備兵たちのうめき声が聞こえた。 振り向いて外を見ると、つい先程までお酒を呑みながら騒いでいた 警備兵2人が地面に倒れていた。 その後ろに、黒い仮面を被った人影が目に入った。
彼は倒れた警備兵に近づいて腰から鍵を奪い、 ナトゥーが閉じこめられている監獄に近づいて来た。 ナトゥーは腰に帯びている剣の柄を握り締めた。 黒い仮面の人はそれを見られなかったのか、 見て見ないふりをしたのか、ナトゥーの監獄の扉を開けてくれた。 警戒しているナトゥーに彼は手招きをして、外へ呼び出した。 ナトゥーはまだ片手で剣の柄を握ったまま監獄の外に出た。 黒い仮面を被った人はナトゥーが剣を握っているのを見たが、 何も言わずに出口へと歩き出した。 ナトゥーも彼の後を追って出口に向かった。 長くて暗い螺旋階段を上がると、 狭くて向こうが見えない廊下が目の前に現れた。 壁にかけられたたいまつが闇を照らし、 その下に倒れているダークエルフの警備兵たちがところどころに見えた。
「貴方は誰だ。俺をどこに連れていくつもりか。」
ナトゥーの質問に何も答えることなく、 黒い仮面を被った人は前へ進んで行くだけだった。 先の見えない廊下がどこへ向かっているかは分からなかったが、 監獄に閉じ込められているよりは得体の知らない人にでも 付いて行ったほうがまだましだとナトゥーは考えた。 しばらく無口で歩いていた仮面の人はあるたいまつの下に止まり、 スタッフを使ってたいまつを触った。 すると冷たい石だった壁が溶け落ちるようになって、すぐ大きな穴となった。 黒い仮面の人は穴の中に入って姿を消した。
魔法と言うもの自体に拒絶感を抱いていたナトゥーは 魔法で作られた穴を見て、少し戸惑いはしたものの、 深呼吸をして穴の中へ足を踏み出した。 穴を通過したのは一瞬だった。 いつの間にか月の光に染まって仄かに光る白い樹木が周りを囲んでいた。
‘外に出たのか?’
周囲を見回すナトゥーの後から黒い仮面の人の冷たい声が聞こえた。
「去れ、ジャイアント。聖なる火の地はお前を歓迎しない」
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