ナトゥーは地下牢獄の冷たい壁にもたれたまま、ビクとも動かない。 幾多のことが頭の中に浮かんだが、集中しようとしたら どれも全て煙のように消えてしまった。 だが、胸の中に怒りだけが満ちていることだけは確かだった。
ダークエルフの国王であるカノス・リオナンへの怒り、 第一宰相とは言え、国王の愛人にしか見えないジャドールへの怒り、 自分をここへ送ったバタンへの怒り、 そしてこんなにむざむざとダークエルフたちに連れ出され 牢獄に閉じ込められた自分自身への怒り。 全ての憤りが胸の中から込み上げてくる。 爆発寸前のような気分だった。
「おい、そこのでっかいさんよ」
ナトゥーの耳に自分を呼んでいるようなささやきが聞こえてきたが、 目をぎゅっと閉じて無視した。 それでもその囁きは諦めようとはせず、ナトゥーの耳に入ってくる。
「眠った振りしていてもワシの言葉が聞こえるのはわかっとるよ」
「…」
「ワシがハーフリングだからといって無視しとるのかね?」
ナトゥーは大きくため息をついてから、声が聞こえるところに顔を向ける。
「俺に何か用でもありますか?」
「まあ、同じ境遇に置かれた同士だし、親しくなろうじゃないか」
ばかばかしい答えに、ナトゥーはこのまま無視して寝たほうがましだと思った。
「それに…
おぬしが閉じ込められた本当の理由を教えようかと思ってな」
「なんですと?」
「おぬし、ジャイアントの使者として、秘密裏にダークエルフの国王に 謁見するため来たのだろう?」
ナトゥーの背中を冷や汗が走る。 ジャイアントとダークエルフの秘密協約はまだ少数の人にしか知られていないことだった。 まだ両国の間で秘密協約が結ばれたわけではないため、 一般の人々は知らないのが当然だった。 フロイオン・アルコンのエトン訪問の件も、多くのジャイアントたちが 社交的な交流に過ぎないと思っているのに、 どうしてハーフリングが秘密協約のことを知っているのだろうか。 ナトゥーは声が聞こえる方向に近づく。
「あなたは誰ですか?」
「ワシはベロベロ。リマ一の宝石細工職人だ。 おぬしは多分、一部隊の副隊長くらいだろうな」
「それをどうやって…」
「おぬしのベルトだ。 それはワシが作ったものだね」
ナトゥーは自分のベルトを見た。 黒いメノウと赤いルビーの細工で仕上げられたベルトの飾りが目に入る。
「これをあなたが作ったということなのですか?」
「相当昔の話だね。ワシが結構若かった頃に頼まれて作ったものだから。 隊長のベルトは象牙とトルマリンで飾られているはず。 真ん中には大きなライノが刻まれている。そうだろう?」
宝石細工職人というハーフリングの話は本当だった。 ナトゥーは息を呑んで、冷たい壁の向こうから聞こえる 明快なハーフリングの話に耳を澄ませた。
「ジャイアントのとある部隊の副隊長を一人送るくらいのことは 秘密裏で送られた使者しかないだろうな」
「これは驚きましたね」
「ダークエルフ王家相手に商売をしていると、政治に目が利くんだよ」
「俺がここに閉じ込められた理由を知っていると…」
「おおよそ見当がついたからな。 で、おぬしの名は何かね?相手から名を聞かれたら 自分の名も教えるのがスジだろう?」
鋭く突っ込まれてきたベロベロの言葉に、ナトゥーはぎくっとして自分の名を教えた。
「ナトゥーか… いい名前だ。古代ロハン語で‘勇猛さ`を意味する。 おぬしにぴったりな名前だな」
ベロベロはただの宝石細工職人ではないような気がした。 ハーフリングらしく軽くて明快な口調ではあったが、 彼の話の中には長い年月を過ごして悟った真理が溶け込まれているのが感じられる。
「ベロベロさん、ダークエルフの国王が俺を閉じ込めた理由はなんでしょうか」
「簡単だ。欲張り大王のカノス・リオナンはジャイアントとの協約において 優位を占めるつもりなのだよ」
「俺を閉じ込めて優位を取るとは、どういうことですか? よく理解できませんが…」
「ドラットまで派遣されたダークエルフの使者たちに何か問題があったんじゃないか? 国境地域で誰かに襲われて死んでしまったとか…」
全てを目で見たように述べるベロベロの話に、ナトゥーはうなりを出した。
「ダークエルフはジャイアントにその責任を取れと言い、 それでおぬしがここに使者として派遣されたのだろうね。 でもジャイアントがその事件とは何の関りもないというおぬしの話を聞いたカノス・リオナンは 自分の計画が崩れないようおぬしをここに監禁したのだよ。 おぬしがここに来なかったことにすれば、ダークエルフの国王はこう言えるだろうな。
‘ジャイアント側はダークエルフの使節団の死に対して、 遺憾はおろか何の立場も表明せず、 これはジャイアント自ら、自分らの過ちを認めたのである`とね。 下手をするとダークエルフとの戦争にもなる状況だから、 ジャイアントとしてはダークエルフの要求を受け入れ、 一刻も早く協約を結ぶしかないだろう」
「でも、ダークエルフの使節団を襲撃したのは俺たちではありません!」
ベロベロは舌打ちした。
「当然だよ。 彼らを殺したのはダークエルフの国王だから」
ナトゥーは考えてもなかったベロベロの言葉に衝撃を受け、何も言えなかった。 ダークエルフの使者を殺したのが彼らの国王だったと?
「ワシが言っただろう? カノス・リオナンは欲が深い人物だと」
「しかし… ダークエルフの使者の代表だったフロイオン・アルコンは弟です。 どうやって兄が弟を…」
「おぬしはダークエルフの政治というのをまったく知らないのかね。 王になるためには家族も何もない。母であれ、弟であれ、父であれ…
自分が王になるためなら遠慮なく剣を振り回すのがダークエルフだ。 同じ親から生まれた兄弟同士でも珍しくないことなのに、 腹違いの兄弟くらいは…」
以前、深夜のエトン城の広場でフロイオンと一緒に散歩した時の話が ナトゥーの頭に浮かぶ。
`やはりジャイアントは自国に対しての自負心が相当強いみたいですね。`
`どの種族だって自分の種族や国に対しての自負心は持っていますよ、フロイオン卿`
`さあ…少なくともジャイアントはそうだということですね。`
その時はフロイオンがどういう意味でそんな風に言ったのかが分からなかった。 しかしベロベロの話を聞いて、フロイオンが何の意味でそういう話をしたのかがようやく理解できた。 誰も信じられないところで、一生周りの人を疑いながら生きるということは地獄と同じはずだ。 そんな地獄のようなところが、いくら自分の母国であるとしても、 プライドを持つのは不可能だろう…
「フロイオン・アルコンに今現在王位継承権はないが、 カノス・リオナンにとってはもっとも警戒するべき人物である。 自分の娘たちが王位に付く前に死ぬか、王になっても後継がいないのであれば、 フロイオン・アルコンが王位継承権を持つことになるからな。 多分カノス・リオナンは今回のことを喜んでそのことを企んだのだろうね。 目障りの人物も消して、ジャイアントも協約せざるを得ないようにできるから」
「でもフロイオン・アルコン卿は生きています。 確実なことではないけど、ハーフリングの地に生きています」
「そうかい?それで、おぬしはそれをダークエルフの国王に知らせたのかね?」
「当然じゃないですか? 彼が生きているのが分かれば、ダークエルフの使者を襲ったのが 我々ではないということが明らかになりますから」
「これこれ…
おぬしはさっきのワシの話を聞いてもまだ分かってないのかね? カノス・リオナンはフロイオン・アルコンを殺すはずだ。 そしておぬしが犯人だと濡れ衣を着せるだろう。 ダークエルフとの協約に反対したジャイアントの不純な輩が 国王の弟を殺害したとね」
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