青い空の下に広がっている薄緑の芝生。 そして、その上に建てられている茶色の古めかしい建物へ徐々に近づくと エドウィンの胸がときめいた。 そんなに長らく離れていたわけではないのに、 自分の実家が見えてくるとこれほど懐かしいことはない。 多分あまりにも多くの出来事があったからだろうと思いながら、 エドウィンは足を早めた。 途中で寄った宿で、人を送って自分の帰還を知らせたから、 母が待ち焦がれているかも知れないと思ったからである。
家に帰ったエドウィンが一番先に喜んだのは 幼い頃から飼ってきた猟犬たちだった。 最高の鴨狩りだと呼ばれているノックス種5匹がワンワンと吠えながら 若の帰りを待っていた。 犬の吠え声に屋敷が騒いだ後、玄関の扉が開かれ 母と自分、両方の乳母であるヨハンナそして我が最愛の母が現れた。
「エドウィン!」
母は玄関に立って微笑み満ちた顔で息子の名を呼んだ。 エドウィンは遊んでくれと、くっつく狩犬たちを残して母に近づいた。
「ただいま戻りました、母上」
エドウィンは自分の母をギュッと抱く。 幼い頃にはこの世でもっとも美しい人だと思っていた母は、尚も美しいままだった。 だが、もはや庭にまでも出られないくらい健康が衰えた姿に心が痛いと思った。 帰ってきた末っ子の顔をなでながら、バルタソン男爵夫人は優しい声で話しかけた。
「無事に帰ってきて何よりだわ。 今朝貴方が帰ってくるという便りをもらって、ジフリットも久しぶりに帰ってきたのよ」
「兄上も来ているんですか?」
「書斎でお父さんと一緒に貴方を待っているの。 でも…」
兄が書斎で自分を待っているといる母の言葉だけを聞いたエドウィンは 屋敷の中へ急いだ。
「グレイアム・ベルゼン伯爵が旦那様と一緒におられますが、奥様」
ヨハンナが不安な顔でバルタソン男爵夫人に声を掛ける。
「私もその話をしてあげようとしたけれど… 入ってしまったわね」
屋敷の2階まで駆け上ったエドウィンは、父の書斎の前に立って 息を弾ませながら身づくろいを整えた。 扉にノックして入ろうとした瞬間、書斎の扉が開かれ兄が現れた。
「兄上!」
「エドウィン!いつの間に着いたんだ?」
扉の前に立っていたエドウィンを見てびっくりしたジフリットの後ろから 若い男性の声が聞こえる。
「次男の息子さんがお帰りのようですね」
「そうみたいですね。 ジフリット、何をしておる。伯爵が出れるよう道を開けぬか」
父の言葉にもじもじしていたジフリットが書斎から出て廊下に立つと、 エドウィンの視野に父の隣にいる若い男性が入った。 自分とあまり年の差がついてないように見える男は、 くしけずった黒い髪の持ち主で、黒い瞳で自分を見ていた。 口元にニッコリと微笑を含んでいる彼の目つきは、年より成熟したように見える。 エドウィンは彼が空を羽ばたく気高い鷹のようだと思った。 男はエドウィンに近付き、握手を請じながら自分を紹介した。
「初めまして。 グレイアム・ベルゼンです」
エドウィンは慌てて皮の手袋を脱いで、男と握手を交わした。
「エドウィン・バルタソンと申します。 お会いできて光栄です」
「バルタソン男爵から貴方の剣術にとても誇りを持ってらっしゃるようで。 後ほど御指南いただける機会があればと」
「勿体無きお言葉。まだまだ足りません」
グレイアム・ベルゼン伯爵はジフリットとバルタソン男爵に別れを告げて階段を下りた。 階段の下で客のマントを持っていた執事が伯爵を見送りするところまで見たバルタソン男爵は エドウィンに声を掛ける。
「無事に帰って来て何よりだ」
「ただいま帰りました、父上」
「疲れているだろう。夕食までは部屋で休んでよいぞ」
「はい」
エドウィンの肩を撫でた後、バルタソン男爵は書斎に戻った。 隣で見ていたジフリットはエドウィンの腕をつかんで部屋まで連れて行きながら話す。
「父上ももう年のようだな」
「何の話?」
「肩を撫でて下さったんじゃないか」
エドウィンはやっとジフリットの話が理解できた。 無口な父が今まで愛情表現なんかしたことは一度もなかった。 聖騎士に任命された時でさえ、父はおめでとうとの一言だけだった。
「しかし、伯爵は何で父上を訪ねたんだ?」
「国王陛下の命令でシュタウフェン伯爵の城を落としに行く際に、 父上に同行してもらいたくて来たそうだ」
「シュタウフェン伯爵を?何で?」
エドウィンの質問に何の返事もせず黙っていたジフリットは エドウィンの部屋に入ってドアを閉じてからその理由を話した。
「シュタウフェン伯爵には息子が一人いるけど、何ヶ月前かその息子が 狩りに出てから行方不明になったんだ。 でもそのシュタウフェン伯爵の息子が消えた後、伯爵の城近くの人々の間に 夜な夜なモンスターが出現するとの噂が広まったんだよ」
「まさか…」
ジフリットは頷いて、もっと声を低くして話を続ける。
「シュタウフェン伯爵の息子は消えたのではなく、ウォーウルフになってしまったんだ。 多分狩りにでてドレクスターに噛まれたんだろう。 伯爵は息子を捕まえて城の中に閉じ込めたけど、噂が広まって 結局陛下の耳にまで入ってしまったようだ。 俺も大神殿で聞いたからデル・ラゴスでその噂を聞いてない人は いないと言ってもいいだろうな」
「それで、陛下の命令でベルゼン伯爵が シュタウフェン伯爵を捕らえるために行くのか?」
「初めからシュタウフェン伯爵の領地を攻めるつもりはなかったらしい。 国王陛下は人を送らせ、シュタウフェン伯爵に息子をアインホルンに送致せよと命じられたから。 でも、伯爵は陛下の命令を聞かなかったんだ。 息子を送致したら死刑されるのが丸見えだから、送致することより 最後まで息子を守りながら共に死ぬことを選んだだろう」
エドウィンは窓の向こうに視線を投げながらジフリットに聞いた。
「父上はベルゼン伯爵の要請を受け入れられた?」
「ああ、でもベルゼン伯爵から頼まれたからではなく、 陛下の命令だから共にすると決められたのだよ」
モンスターになってしまった息子と、息子を守るため世間を敵に回した父親。 誰一人易々と彼らを非難できるはずがないものの、世間は彼らから目を逸らした。 どうしてこんなことなってしまったのか、 だれにその責任を問えばいいのかまったく分からない。 いや、すでに答えは知っていた。 神がこんな世界にしてしまったという答えを。 だが、エドウィンはまだその答えを否定したかっただけだった。
「俺も父上と共に行く」
エドウィンは自分の決意を兄に知らせた。 ジフリットはエドウィンが今回の出来事に巻き込まれ、 心に傷つけられるのではないかと心配していたが、彼の輝く瞳で意思を見て気付いた。 弟がもはや昔のように幼い少年ではないことに。 | |